『「聴く」ことの力』 鷲田清一
先日ある人から(Aさんとします)
私の性格(性質?特徴?)について、「○○だよね」と言われました。
Aさんとは、そんなにたくさんは話してなく、○○の内容は、隠したい欠点だと思っていることの一つです。
私は、自分を好きになるために欠点をなくす努力をしています。
ただ、もって生まれたものは、努力でなくなるものではないので、長く付き合うと、それなりにバレるのですが、それはしょうがないことだと、思っています。
今回は、そんなに話していないAさんに見抜かれたことがかなりショックでもあり、恐怖でもありました。
結果、自分自身について考えてしまうのですが、思考が自分に向かうと、泥沼化するだけで何の解決にも、何の答えも見つからない状態になります。
時間ばかりが経過し、気力と体力が奪われるので、本当に無意味な時間を過ごしていると思いつつ、その思考から逃げられない状況が続いていた頃にこの本を読みました。
私は、哲学といえば土屋賢二さんは好きなのですが、哲学の知識は全くありません。
ですので、「こいつ読み方浅いな」とか「全然分かってない」と思われる方もいらっしゃると思いますが、今の私が感じたことを書きます。
内容は、「聴く」ことを臨床哲学(研究室など個室にこもらずに人に接して哲学をしようという意味になる)の観点から考察してみようという本です。
「臨床」は、床に臨む、つまり患者さんに接して治療するお医者さんに用いられる言葉です。
研究しているお医者さんは「基礎」をやっているお医者さんとなります。
率直な感想としては、文献引用が多く、知識はつきそうな本です。
コトバが非常に込み入っていて、もう少し分かりやすい表現にできないものかと読みながら思ったものです。誰に向けて書いた本なのか・・・。
「聴く」ことの力とは結局何なのか、聞いたこともないような哲学の本からの引用と身近な例が乖離しすぎていて、どうつながるか分からない。
考察はどうなったのか、よく分からない本でした。
その中で、ココロに残ったのは、哲学者のヴェイユという人の言葉。
「「(前略)<不幸>と<困難>のなかにいるひとは話はしない。話をしないだけでなく、そもそも<不幸>もしくは<困難>のなかにじぶんがいるということそのことに無意識であろうとする。
なじんでいこうとすらする。思考は痛みをもたらすからである。(後略)」」
「ヴェイエに言わせれば、思考しうるということ、ことばをもつことそのことはすでに一つの救い、あるいは恵まれた特権のうちにあるということなのだろう。」
本というのは、一行の文章でもココロに残る、何かひっかかる、役に立ったなどなど、何かがあればいいので、この本を読んだことも結果良かったと思っています。
さて、私の思考がどうにも悪いほうに向かって止まらないので、信頼できる人に全部話してみました。
話してみると、すんなり落ち着きました。大した悩みでもなかったのかも(笑)
少なくとも、自分に思考を向けるのは止めることにしました。どうしようもないことなので。
相談相手に言われたことが「いろんなこと考えていたんだね」と。
そういえば、仕事以外のことはあまり考えてこなかったので、Aさんの一言はいろんなことを考えるきっかけにもなったなと思っています。
いろんな人と接することでいろんな発見につながるなと。
思考をするために、他の哲学の本も読んでみようかなと思っているところです。