知人がオススメしていた本で、彼の感想があまりにワケが分からなくて(笑)

逆に興味が出てきて、読んでみました。

 

一言で言うと、非常に難解な本です(私には)。

”日本語が分からない”という本を久しぶりに読みました。

エマニュアル・レヴィナスという哲学者について書かれた本ですが、

著者の内田樹さんが、丁寧に読み解いてくれているのは伝わるのですが、

もともとの本がおそらく非常に難しいのと、私に哲学の基礎知識がないので、

何重にも「分からない」が重なって、結果、難解な本というイメージになりました。

 

それでも、最後まで読んだのは、何となく分かる文章の中に、

今まで考えたことがないような思想や珠玉の言葉があったからです。

何となくぼんやりしたイメージでしか掴めていないのですが、

しっかり読みこなせる日がくるといいなと思いました。

 

気になった文章に自分なりの考えを書いてみます。

何年か後に見直すと面白そうです。

 

「テクストは読者を安心させることではなく、不安にさせるために書かれる。

なぜなら、「説明」ではなく「運動」のうちに至高のものは住まっているからである。」

本は「あなたの答えはこうですよ」と回答を示してくれるものではなく、

考え方のある道を照らしてくれるものだという意味だと思いました。

自分で考える力を与えてくれる本を読むことは一見遠回りのように見えますが、

便利だからと実用書に頼ってばかりいては、常に誰かに、何かに説明や

安心を求める人間になってしまう。

 

「ここに「あなた」に向かって語りかけている一人の人間がいる。

「あなた」に祝福を贈り、「あなた」との対話を開始することを切望している

一人の人間がいる。それを伝えることに「挨拶」の本質は存する。(中略)

「「挨拶」を贈るものは、「パロールの贈り物」が「あなた」に届かず、

届いても黙殺されるという「リスク」をあらかじめ引き受けている。

私は自分の脆弱な脇腹をまず「あなた」に曝す。

「あなた」は私を傷つけることができる、私は「あなた」によって

傷つけられうると告げつつ、「挨拶」は贈られる。

それゆえ、レヴィナスは「語ること」によって創始される「他者との出会い」を、

私が「他者」を見出すという能動的なモードにおいてではなく、

私が「他者に暴露される」という受動的なモードにおいて記述するのである。」

「他者」との関わり方について、こんな考え方があるのかと驚きました。

自分から挨拶することや声をかけることが、勇気のいる行動であることが

納得できるものでした。自分を曝す勇気が挨拶には、語ることにはあるのですね。

 

「「同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要だ」」

これは、読んだときにはっとさせられた言葉だったのに、

メモをしておかなかったので、読んでいたときに得た驚きを忘れてしまいました・・・。

 

「対話は知を「蘇生」させることをめざしている。」

人と話していて、気が付くことや、考えていなかったことを考え付くという

経験は誰にでもあると思います。自分で考える+対話という形が知を

促進させるものだと思いました。

 

「(前略)哲学者に求められるもっとも重要な知的資質とは「おのれが確信できない

ことを明確な言葉で述べること」だと若きレヴィナスが考えていた、ということである。」

自分が分かること、できることを説明することはできても、分からないこと、

できないことを明快な言葉で述べるなんて、凡人にはちょっとできないと思っています。

 

「地上に倫理をあらしめるのは、「法理的公正」ではなく、「人間的公正」である。

私が「他者」に先んじて、「他者」を押しのけて、「私はここにいます」と宣言し、

罪を受けるために一歩前に出ることである。たとえ神が「平等」を命じた場合でさえ、

有責性を引き受ける優先権だけは譲らないという「不平等」へのこだわり、それが

「人間的公正」を基礎づけるのである。」

「「有責性の引き受けにおける優先権の請求」という考想は、レヴィナスにとっては

倫理を基礎づける根本的考想であり、これは別の文脈では「選び」とも呼ばれる。

「選び」とは何らかの特権や利得を優先的に獲得することを指すのではない。

その逆に、人に先んじて苦しみ、人に先んじて罰を受けることを言うのである。」

この考には、感動しました。ユダヤ教の考えも含まれているようです。

まず、自ら進んで責任を引き受ける、その覚悟。

自分が、自分が、という人が多い中でこのような考え方に触れると、

自分はこうであれたらいいなと思います。

 

以前に読んだ哲学の本は、「何だかよく分からないし、もっと分かりやすく

書いたらいいのに。」というような感想しか持ちませんでしたが、

この本を読んだときには、「分からないのに惹かれる」という状態でした。

今の私に合ったのか、私の波長に合ったのか、分からないを楽しめた本でした。